仕事


 思った通りに雨足は強い。
 降水確率20%としては破格の降りというものだろう。光だけが見えていた雷も少しづつ音を大きくし、雷雲が近付いている事もわかる。それでも、ビルの隙間から見え隠れする雷の波形は特撮じみて見えて、王泥喜はクスリと笑った。
 幼い頃からこの光を恐いと思った事がない。音はまぁゴロゴロ、バリバリと煩いが遮るものの無い空を走る光はとても綺麗だ。
 そうして、雨雲が覆った空から事務所の周囲に視点をかえて見回したが、牙琉検事の姿は無かった。意外と意地っ張りだから、傘が無いことに気付いても事務所には戻ってこないだろうと王泥喜は踏んでいた。それはアタリのようだったが、意地を張ったまま駅に走っていって仕舞ったのだろうか?
 手にした傘を斜めに見て溜息をつく。世話の焼ける人だ、本当に。
 アスファルトに叩きそれでも構わず、駅へ向かおうとした王泥喜を呼び止める声がした。
 「おデコくん。」
 世間広しと言えども、こんな名で呼ぶ人間はひとりしかいない。
 振り返れば、事務所の斜向かいにあるビルの非常階段から顔が覗いていた。上の踊り場が屋根になっていて雨が降り込まないらしい。
 ただ、こんな場所で雨宿りをするくらいなら、事務所に帰ってくればいいのにと、王泥喜の溜息は深くなる。赤茶色の階段に膝を抱えて座っている様子は、天才検事と呼ばれる男とは思えない。
「ほら、傘持ってきてあげましたから、事務所に戻って雨宿りしませんか?」
「やだよ。」
 どこのガキだ、アンタは。
「牙琉検事。」
「余計な事を言いそうだから絶対戻らない。」
「それ、理由になってないですよ。」
 諭すように言っても、視線は地面から剥がれない。
「成歩堂さんに、もう一度弁護士になってくれなんて僕に言えた義理はない。でも、彼を前にしてたら絶対言ってしまうから…戻れない。」

 騙される方が悪いなんて言わないけれど、法廷に贋作を提出した時点で負け、成歩堂さんの落ち度だ。それを暴露する用意をしていたからと言って、牙琉検事が本当の意味で罪を犯した訳ではない。
 でも、それに拘るなという方もどうかしている。

「僕は彼の仕事を奪った。でも、それが僕の仕事で、僕だってそれなりの覚悟を決めて仕事をしていたんだ。
 けれど、弁護士である成歩堂さんに憧れた時期も確かに存在していたから。僕は…。」
「俺も応援しますって言いましたよ。でも、検事も物好きですよね、逆転男に苦しめられたいなんて。」
 王泥喜が戯けた声色でそう告げると、響也は初めて顔を上げて、困ったように笑った。自覚はあるらしい。
「此処にいてもしょうがないから、駅で珈琲で…。」
 王泥喜の言葉を遮るように、空に光が走り数秒置いて轟音が響く。だいぶ近付いて来たんだなぁと仰ぎ見ていると、強い力で腕を引かれた。
 蹌踉めいた身体はそのままストンと階段に腰を下ろさせられる。途端、響也の腕が、王泥喜のが持っている傘に伸びた。酷く慌てた様子に何事かと目を見開く。
「早く畳んで、傘危ないよ。」
「は…? んなに簡単には落ちませんよ。」
「わからないじゃないか。避雷針立ってるし。」
「いやいや、これは髪です。」
 王泥喜の膝上に身体を投げ出した状態で、傘を奪い取り閉じてしまう。そうして、漸く満足したようだった。傘を手摺に立て掛けてから、王泥喜の肩に手を置き上半身を起こす。じっと見つめている王泥喜に向けて、愛想笑いを返えそうとした瞬間に雷鳴が轟くと、再び動きが止まった。

 ちょっと待て、腕輪が痛いくらいに反応してるんですが。

「ひょっとして、雷恐いんですか?」
 びくっと身体が震えたのが、肩に置かれた手を通じてわかった。
「に、苦手なだけだ。」
 同じですから。
「そんなに恐くないですよ? 落雷の可能性なんて、癌の死亡確率よりも遙かに低いですし。」
「…。」
 あ、睨んだ。
「理屈ではわかってても駄目なんだよ。小さい頃に色々と吹き込まれたから。」
 跋が悪そうな顔で視線を逸らす。牙琉検事に良からぬ事を吹き込んだ人間は容易に想像がつくので、王泥喜も苦笑いを浮かべて追求するのは止めにした。
 それにしたところで、気付いてるのかな牙琉検事。
 俺達、凄い場所で抱き合ってる。まぁ、雨は酷いし、往来からは背中を向けているから人目は平気だとは思うけど。

「臍を取られるから…なんて言い出されたらどうしようかと思ってましたよ。」
 シャツの裾から見え隠れするお臍を撫で上げたら、掌をギュッと抓られる。
「一体君は、僕をどういう目で見ているのかな?」
「勿論、そういう目ですけど。」
「おデコくんの…。」

 (莫迦)とか(スケベ)とかいう台詞は、閃光に消された。次にくるであろう雷鳴に響也が身を竦めるのがわかって、王泥喜は響也の腰から腕を回して抱き寄せる。
肌の質感がわかるほどに密着した頬からも響也の緊張が伝わって来て、王泥喜は腕の力を強めた。街に響くのは、雨音と雷鳴。
 当分止みそうもない雨は、ふたりの行動を強制的に制限した。
「暫く動けませんね。」
「あ、ごめ…おデコくんの仕事、邪魔して。」
 離れようとする身体は逃がさない。
「大丈夫です。一緒にいますよ。」

 この可愛い恋人の相手をするのも、自分の立派な仕事なのだから。

「じゃあ、これは僕から報酬。」
 柔らかな唇が己のものに重ねられていくのを、王泥喜は瞼を落として受け止めた。

〜fin



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